第一章 出会い


  私は悩んでいた。

  会社から出たプロジェクト、いやプロジェクトなんてかっこよく言うほど
 のものじゃない。30数ページにもわたる会議資料。その中にはそれらしい
 名前や、聞いたことはあるが意味はよくわからない単語が並んでいた。そん
 な資料を横目に、半日ほどの時間が割かれ、重役連中や部長がしきりに議論
 をとばしていた。
  しかし、出た結論は単純。
 「売り上げを2倍に伸ばせ! 営業部はしっかりと頼む」
  ちっ、結局は自分のいる営業部に任せられるワケか。いつまでたっても進
 歩がないな。悩みの種はつきないね。
 「こりゃ結論じゃないよ。最初から決まっていたことだろう!」
  そう叫びたくなるのをぐっと抑え、異常なまでに無駄の多い資料とたばこ
 の吸い殻を横目に、私は会議室を後にした。

  「矢木沢産業」その社名の入った会議資料を眺め、今後の施策を考え出す
 と胃のあたりがきりきり痛んでくる。
 「ふぅ・・・」
 「有川課長、会議ずいぶん長かったですね。会議、どうだったんですか?」
  お茶を持ってきながら我が課の女性スタッフである宮永が尋ねてきた。 
 「ま、いつも通りのなれ合い会議だよ。結論は決まっているのに・・・
  全く無駄の多い会社だよ。とてもメーカーとは思えないね。」
  胃のあたりをさすりながら宮永女史の入れてくれたお茶をすする。
 「そうはいっても、この地方じゃ優良企業と呼ばれていますよね。私の友達
 からは『矢木沢産業っていったら、この辺りじゃ一流じゃない』っていつも
 いわれてますよ。」
 「ま、それも大手の電機メーカがあってのことだからね。所詮は地方の中小
 企業に過ぎないよ。現に取引メーカーからは『何でも屋の矢木沢産業』だっ
 て評判だからね。
  矢木沢産業に頼めば、コストも納期もなんとかしてくれるって言われてい
 るよ。ただし、品質は『?』だってうわさもあるけど。」
 「ところで、今度のプロジェクトはどんな内容だったんですか?」 
 「それは明日のミーティングで話すよ。今日はもう帰るわ。お疲れさま。」
 「お疲れ様でした。気をつけて」

  はぁ、このままじゃ気が重いな。
  よし、いつものごとく森田をよんで愚痴でもこぼすか。
  
 「よお、生きてたか?」
  これが森田のいつもの挨拶だ。同期入社の森田は技術部で主任を務めてい
 る。いつも体育会系の明るいノリで、よくこの明るさに救われている。
 「今日ばかりはちょっと死んでいるかもな。ま、まずは乾杯といこうか。」
  まずは杯を交わし、いつものごとく私の愚痴から始めた。今回のプロジェ
 クトも例のごとくプロジェクトとは言えない内容であること、中身の伴わな
 い会議につきあわされること、最終的に自分の営業一課が動く羽目になるこ
 と、これらの悩みの種はつきないこと、などをとりとめもなく話をした。
 「ま、その気持ちはわかるよ。技術部だって似たようなものだしな。同期で
 出世街道を走る有川のことだ。きっとなんとかなるよ。去年の課長抜擢の辞
 令にはみんな大騒ぎだったもんな。」
 「あの辞令、今思うと会社側の戦略だね。『課長』なんてえさをぶら下げて
 要は会社側の人間にもっていきたいだけのようだし。おかげで家に帰る時間
 は遅くなるし、責任はつきまとうし、その割には昇給はわずかだし・・・」
  この会話は去年私が36才で課長に抜擢されてから、毎週のように森田と
 交わしている。しかしその愚痴につきあう森田がいるからこそ、まだ救われ
 ているんだよな。

  そこそこ酒を組み合わしたところで、ふとあることを思い出した。
 「そういや森田のところの若いやつ、えっと・・・なんて言ったっけな?
  なんかあいつ、最近変わったよな。明るくなったというか、前向きになっ
 たというか。」
 「あぁ、星田のことか。そういやあいつ最近変わったな。」
 「なんか部下を育てるコツなんてのがあるのか?」 
 「いや、オレは何もしていないよ。そういえばなんとかってのを受けてから
 変わったとか聞いたことがあるな。」
 「その星田みたいなのがウチの営業一課に来てくれると活気づいていいんだ
 けどな。そのなんとかってのは何だ?教えてくれよ。」
 「えぇっと・・・ちょっと待て、思い出すから。確か・・・『コーチング』
 とか言っていたような・・・」
 「『コーチング』・・・?」

  この言葉との出会いが、私と私の勤める矢木沢産業を大きく変えることに
 なるとは、この時点では夢にも思わなかった。

 「・・・コーチング?聞いたことない言葉だな。
  森田、それって怪しい宗教とか、よくある自己啓発セミナーみたいなモノ
 か?」
 「おいおい、オレもよく知らないよ。ただ、そのコーチングってのを受け始
 めてから、星田が変わったのは確かだな。
  ま、怪しい宗教であれ自己啓発であれ、自分の部下が『やる気』を出して
 仕事をしてくれるのはいいもんだぞ。
  なんなら星田にその『コーチング』ってのがなんなのか、聞いといてやる
 よ。」

  森田のその言葉を聞いて、そして自分が森田の言葉に真剣になっているこ
 とで、私ははっと気がついた。
  今、自分がどれだけ厳しい立場にいるのか、そしてわらをも掴む心境で営
 業のヒントを得たいと思っているのか。
  宗教でも自己啓発でも、霊感商法だっていい、今の状況「売り上げを2倍
 にする」という目標を達成さえできれば、なんだってやってやる。
  そんな気持ちになっているのである。
  
  森田にはコーチングの情報をよろしくと伝え、今日は早めに家路につくこ
 とにした。
  今の切羽詰まった心境では、どうしても酔っぱらう気持ちになれない。電
 車の中で再び胃がきりきり痛み出した。

  翌日は朝一番に、昨日の会議の報告を兼ねた課内ミーティングを行った。
  我が社は本来ならフレックス制度で、朝は10時までに出社すればいいこ
 とになっている。が、このミーティングを9時から行うおかげで、遅くとも
 8時45分までには出社しなければならない。会議資料などを準備する必要
 があろうものなら、下手すると8時には出社しておかなければならない。

  私はこの課内ミーティングが嫌いである。
  課長である私がこんな事をいうのも何なのだが、我が社の無駄の一つにあ
 げていいだろう。
 「じゃあ辞めればいいじゃないか、課長なんだからそのくらいの権限がある
 だろう。」
  そう言われそうだが、営業部の三宅部長がかつて課長だった頃からの慣例
 で、部長曰く
 「私はこのミーティングでいろいろと情報を得て、今の営業部を作り上げ
 たんだ。私がうまくいったんだから君たちにも有効なはずだ。」
 と言って譲らない。
  まったく、何のためのフレックスなんだか・・・。
  
 「有川課長、みんなそろいました。」
  宮永女史に呼ばれ、若干痛む胃を抑えながら、あの紙の無駄としか思えな
 い大量の資料を抱え、ミーティングルームへ向かった。

  ミーティングルームへ向かう途中、森田の部下でありコーチングを受けて
 から変わったという星田くんとすれ違った。
  彼は同僚と話をしていたのだが、すれ違った一瞬だけでも明るさと前向き
 さと自信がにじみ出ているのがわかる。彼が理系でなく文系であったなら、
 いち早く我が営業一課へ引き抜くのだが。おしい人材だ。

  すれ違ってからすぐ、予想外の出来事が起こった。
 「課長、有川課長!」
  なんと声をかけてきたのはその星田くんであった。
 「課長、森田係長から聞きました。『コーチング』に興味があるんですか?
  よかったら私の『コーチ』を紹介しましょうか?有川課長なら絶対に気に
 入ってもらえますよ。」
  にこにこしながら星田くんはそう話してくれた。
 「あ、あぁ、そうだな。じゃあまた後から連絡するから。」
 「じゃぁ、昼休みにでも。ではまた!」
  とても3ヶ月前の星田くんとは思えないハツラツさである。目立つことの
 ない平凡な技術者だった彼が、あの一件で周りの注目を集めるようになると
 は・・・
                              
  技術部の星田くん、半年前まではその名前を知らなかった人物だった。
  私の同僚の森田の部下くらいならある程度名前や何をやっているかくらい
 は把握していたのだが、それでも名前が出てこないくらいの存在だった。
  その彼が私の記憶にインプットされ始めたのは、あの一件からである。
  
  絶対に不可能だと思われた特殊モータの設計から立ち上げまでを、一人で
 引き受け、それを成し遂げてしまったのだ。
  このときの星田くんの勢いは、めざましいものがあった。
  「一人で」というものの、実際には自然に彼の元に人が集まり、そして彼
 を中心に事業が、まるで魔法のように進んでいった。
  特にリーダーシップを発揮しているということでもなく、むしろ彼の上司
 で私の同僚である主任の森田が知らず知らずのうちに「リーダーシップをと
 らされていた」という形でプロジェクトが成功したのである。

  それが3ヶ月前の出来事であった。
  
  それからの彼は、水を得た魚のように、次々と新しい設計プロジェクトに
 着手していると聞いている。当然一人では出来ないことばかりだが、それぞ
 れ順調に進んでいるらしい。彼は周りの協力を得ることがとてもうまいと評
 判になっている。
 
  彼の上司である森田曰く
  「星田は急にコミュニケーションをとることがうまくなってね。自然と彼
 に協力してくれる仲間が増えたんだよ。」
  ということらしい。
  
 「コミュニケーションか・・・今、この矢木沢産業に欠けているところかも
 な。当然営業部にも・・・」
 「え、課長、何か言いました?」
 「いや、独り言だよ。さ、ミーティングを始めるか。」
  私と宮永は、山のような会議資料を抱え、部下の待つミーティングル
  ームへ足を運んだ。

  私は営業一課の部下12名に、昨日の会議の報告を行った。
  部下達は「2倍の売り上げ」という最終的な目標に対し、別に驚くわけで
  もなく、不安も、悩んでいる様子もなかった。そこにあるのは
 「またか・・・同じ事を何回やらせればいいんだよ」
 という、あきれとある種の落胆が入り交じった顔つきをしている。

  そうなんだよな、半年に一度、似たような「プロジェクト」と称してはろ
 くに成果も上がらず、うやむやのまま終わってしまうことを繰り返す。1年
 前に課長に昇進した時の最初のプロジェクトは、「今度こそは」と張り切っ
 たものの、他部署からのバックアップを十分に受けきれずにわずかの成果を
 上げただけで終わってしまった。

  そのときの三宅部長の言葉
 「なに、また次がすぐに始まるさ。いつかは成果がでればいいんだよ。」
 という慰めにもならない言葉が、未だに耳に残っている。
 
  今回もその雰囲気に流されるのか・・・。
    
  しかし、昨日の会議での三宅部長の態度が気になっていた。
 「今度こそは、何が何でも目標を達成!そのためには我が営業部の全精力を
 持ってこのプロジェクトに当たりますよ。
 なにしろウチには有川という若くて有能な管理職と、その下にいる有能な営
 業マンが控えているんですから。任せておいて下さい。」
  おいおい、いくら自分をヨイショしても何も出ないよ。それどころか私の
 となりに座っている営業二課の菊池課長の立場はどうなるんだ。

  結局は部長の威厳をかけて私がなんとかしないといけないのかよ。
  しばらく収まっていた胃の痛みがぶり返したのはこのときからであった。
  
  中身のないプロジェクトについて長々とミーティングする気にはなれない。
 みんなは他にも仕事は山ほど抱えている。分厚い資料の割には早々にミー
 ティングを切り上げ、プロジェクトの計画については後日みんなの意見を
 求めることにした。

  早々に切り上げた理由はもう一つ、三宅部長がミーティングの途中に割り
 込んで来る可能性が高かったためである。
  部長に乱入されると、タダでさえ志気が下がっている状況に追い打ちをか
 けられると感じているからである。

  この雰囲気、やはり営業部内のコミュニケーションをもっと盛り上げない
 とやばいな。特に最近の部長は押しつけ仕事が多いからな。みんなうんざり
 きているのも仕方がないか。
  せめて技術の星田くんのようなムードメーカがいれば・・・。
  そうだ、星田くんが言っていた『コーチング』っての、ちょっと詳しく聞
 いてみるのも悪くはないかな。

  気がついたら、星田くんのいる技術部の内線番号を押している私がいた。

                  ★

 「有川課長!こっちです。」
 私の姿を遠くから見つけて、星田くんは一生懸命手招きをしてくれた。
  昼休み、会社の中庭にある芝生の広場には、つかの間の安らぎを求めにき
 た矢木沢産業の社員が大勢いる。特に今日は天気も良く気持ちがいいのだろ
 う、やけに多く見える。
  その大勢の中で早々と星田くんは特等席のベンチを陣取ってくれていた。
  
 「いやぁ、悪いね。せっかくの昼休みに呼び出したりして。」
 「そんなことないですよ。むしろ自分の方がうれしいくらいですよ。だって
 『コーチング』について話を聞かせてくれ、なんてことはじめてですからね。
 なんだかワクワクしちゃいますよ。」
  星田くんの楽しそうな顔、まるでご主人を見つけた時のペットみたいな喜
 び方は頭にこびりついてはなれないだろうな。
  確かに部下や同僚がこんな顔で接してくれると、彼のためにいっちょやっ
 てやるか、って気にもなるのがわかる気がする。

 「で、森田主任からもちょっと聞いていたんですけど、有川課長、コーチン
 グのどんなことをお聞きになりたいのですか?」
 話を切り出したのは森田くんからであった。
 
 「星田くんがここ数ヶ月でとても変わったのは目についているよ。その理由
 を森田から聞いたら、『コーチング』ってのをやり始めたからだとか。その
 コーチングってので人間はそんなに変わるものなのか?
 コーチングってだいたい何なんだ?自己啓発セミナーみたいなものか?」
 「あ、有川課長も他の人と同じ事をいいますね。自己啓発に似ている感じも
 しますが、かなり違うんですよ。
 じゃあ、私が受けたコーチングってのを簡単に説明しますね。」
 「是非そうしてくれよ。」
 「そもそも私がコーチングを受けたのは、転職したかったから何です。」
 「えっ!・・・それは意外だったな。とても今の星田くんからは考えられな
 いな・・・」
 「そうでしょう、だって自分でも考えられませんからね。ハハハ・・・」
 
  無邪気に笑う星田くんが、以前は転職を考えていたなんてとても想像がつ
 かなかったのは確かである。いったどうやったらこんなに変わるんだ?」

 「で、転職話がどうして今のような状況になったんだい?」
 「えぇ、最初は友達に転職の相談をしたんですよ。今のままじゃ矢木沢産業
 にいるのもつらいからって。そしたら友達の知り合いがコーチングをやって
 いる『コーチ』っていう職業で、ちょっと相談してみたら、ってことで始め
 たんです。
 私も最初はコーチングって何だろう、聞いたことないなって思っていたんで
 すが、その友達が言うには『本来の自分を引き出してくれるんだよ』ってこ
 とだったんで、このままでいるのもつらいから相談だけならって思ったんで
 す。」
 「本来の自分を引き出す・・・? どういうことかな?」
 「まぁ、焦らないで下さいよ。まだまだ話は続きますから。
 最初は私も半信半疑で、コーチの羽賀さんに会ったんです。最初に話をする
 のは無料だって聞いていましたしね。
 そしたらコーチの羽賀さん、私の話を親身になってよく聞いてくれるんです
 よ。たった一時間くらいだったけど、私の友達以上に信頼感がわいてきちゃ
 って。
 まずは羽賀さんのファンになっちゃったってのが、コーチングを始めるきっ
 かけかもしれませんね。ハハハ・・・」

  親身になってよく聞く。この言葉には納得させられるものがあるな。私が
 入社したての頃の営業部の先輩がそうだったことを思い出した。入社一年目
 の私とコンビを組んで、いろんな営業に行っては私の話をよく聞いてもらっ
 たものだ。
  その先輩も、今では地方の営業所の所長でがんばっているらしい。
 
  思い出に浸ろうとしていたのを呼び戻したのは、星田くんの声だった。
 
 「でね、最初は転職をどうしたらうまくできるのかってテーマで始めたんで
 すよ。でも2、3回くらいやっていったら、羽賀コーチから『星田さん、本
 気で転職したいんですか?』って質問されたんです。
 これにはびっくりでしたね。
 そのときによく考えたら、自分は転職がしたいんじゃなく、今の状況から抜
 け出したいだけなんだって気づいたんですよ。」
 「へぇ、コーチってそんなところまで見抜くのか。なんか怖いね。」
 「そうなんですよ。自分も怖くなって後でそのことを羽賀コーチに聞いたん
 ですけど、実に単純なことでした。
 だって、私が転職について話し出すと、いつも同じ事を言って現状から抜け
 出そうとしていないって。それと転職のことについて話している時は、声が
 弾まないけれど、設計とかの話になると声が弾んでいるんですって。
 そこでピンと来たみたいですね。」
 「ほぉ、話を聞くだけでそんなところまでわかるのか。」
 「えぇ、そこから自分のテーマが『現状打破』だってことに気づいたんです
 よ。そして基本的には技術の仕事がしたいってことも。だからこの矢木沢産
 業でどうやったら自分らしく仕事ができるか、これについてコーチングして
 もらうことにしたんです。
 そしたら、これから行うのが真のコーチングだって羽賀コーチからも言われ
 ましたよ。」

  なるほど、本当の自分を引き出す、その言葉の意味がわかったような気が
 する。
  星田くんの話を聞いていると、その羽賀コーチという人に会わずにはいら
 れない心境になってきた。

  星田くんを変えた人物、羽賀コーチとは一体どんな人なのか?
  私はさらに質問を続けた。
  
 「ところでそのコーチってのは、カウンセラーみたいなものなのか?確かカ
 ウンセリングにも相手の話をじっくりと聞くというようなものがあると聞い
 ているけど。」
 「う〜ん、確かにカウンセリングに似てますけどね。でもなんだろう・・・
 違うんですよ、これが。
 週に一回のコーチングセッションをするんですけど、やり終わった後はやる
 気が出るんですよね。そして次回までに何かの行動を起こそうってきになる
 んです。
 だから悩み事相談みたいなのとはちょっと違いますよ。」
 「へぇ〜、週に一回そのコーチに会いに行くのか?」
 「いや、会いには行かないんです。」
 「じゃあどうやってコーチングを受けるんだ?」
 「実際のセッションで羽賀コーチと会ったのは最初だけですね。あとは全部
 電話ですよ。毎週一回、決まった時間に自分からコーチへ電話をかけるんで
 す。一回30分くらいかな。」
 「よく電話だけでできるもんだな。」
 「自分も最初は不安だったんですけど、逆に電話だけで顔を見ない方が何で
 も言えますね。
 それにリラックスして話せるし。風呂上がりでパンツ一丁でセッションを受
 けたこともありますよ。相手には見えませんからね。ハハハ・・・」

  ま、確かに電話の方が気楽に何でも話せそうだな。パンツ一丁とはいかな
 くても、どんな格好をしていても受けられるというのは便利そうだ。それに
 通わなくてもいいのなら、出張先からでもコーチングが受けられそうだ。

 「ところで、コーチングってのは何を教えてくれるんだい?
 話をよく聞いてくれるってのはわかったけど・・・」
 「お、コーチングの核心に迫る質問ですね。
 もう半年以上もコーチングを受けていますけど、『これっ!』といったアド
 バイスや答えをもらったことはほとんどないですね。あるとしても情報提供
 くらいですね。気になっていることの記事が新聞に載っていたとか、雑誌に
 あったとか。
 あとは自分の話を聞いて、それに対して質問をするのがほとんどですね。」
 「えっ、何も教えてくれないのか?
 よくそれでお金を払うつもりになるな。」
 「いや、むしろ何も教えてくれないからお金を払っているんですよ。
 羽賀コーチ曰く『答えはすべてクライアントの中にある。コーチはそれを引
 き出すだけだ』だそうです。
 コーチングを受けてみるとわかりますけど、確かに自分の口から全ての問題
 解決の答えがでてきますからね。不思議ですよ、これは。」
 「自分の口から答えがねぇ・・・」
 「えぇ、自分から答えを言うので、自分に合ったやり方になるんですよ。だ
 から他から教えてもらったやり方とか答えよりも、実際の行動がやりやすい
 ですね。」

  このとき、私にもそんな経験があったことを思い出した。例の先輩のこと
 である。新人だった頃に仕事を一から教えてもらったが、ある日突然
 「今日から一人で営業まわりに行ってみるか。まずはイシハラ精機だな。ど
 ういう風に攻めればいいか、考えてみろよ」
 と言われたことがあった。イシハラ精機は多少はなじみになったとはいえ、
 こんなペーペーの社員が行って話を聞いてもらえるのが不安だった。
 が、先輩はとにかく私のアイデアを十分聞いた上で、
 「よし、じゃあ今日はどの手をつかってみるんだい。」
 と一言。この手で行きます、と私が言うと
 「わかった、じゃあがんばってこい。」
 と言うだけであった。
  自分が立てたプランだったので、不安はあったが自信を持って営業に望め
 た。予想以上の出来だったと記憶している。
  あのときに先輩や他の社員からアドバイスを受け、そのやり方に固執して
 しまうと、きっと自分のペースを守れずにさんざんな結果に終わっていただ
 ろう。
  思えばあれが、私の真の営業生活のスタートだったような気がする。
  
 「課長、有川課長! どうしたんです?ぼーっとしちゃって。」
 「あ、いや。ちょっと昔を思い出してね。」
 「ところで課長、よかったら羽賀コーチを紹介しましょうか。今の状況を変
 えるのに、コーチングは必ず役に立ちますよ。自分が保証しますから。」
 「そうだな・・・じゃあ連絡先を教えてくれるかな。私から連絡してみるか
 ら。」
 「電話は避けた方がいいですね。だってコーチの仕事ってほとんど電話だか
 ら話し中が多いですよ。できればメールかファックスで連絡して下さいって
 いわれていますから。そしたら折り返し連絡してくれるそうですよ。
 羽賀コーチの名刺を持っていますから、差し上げますね。」
 
  星田くんから渡された一枚の名刺。
 「コーチ 羽賀純一」と書かれたその名刺が、今まで数多くもらった名刺の
 どれよりも重みを感じるのであった。

                  ★

 「どうも、お待たせしました。」
 そういって待ち合わせの喫茶店にやってきたのは、私と同じくらいの歳で細
 身の男性。そう、彼こそがコーチ・羽賀純一である。

  星田くんに名刺をもらった後、「コーチングを受けたいので一度話がした
 い」旨のメールをすぐに羽賀コーチに送った。
  そしてその週の土曜の午後、この喫茶店で会うことになったのだ。

 「あ、初めまして。同じ会社の星田から紹介をもらった有川です。よろしく
 お願いします。」
 「有川さん、まあそんなに固くならないで下さいよ。気楽に行きましょう。
 星田さんからは聞いていますよ。お若いのに矢木沢産業の営業課長だそうで
 すね。いやぁ〜、私の方が恐縮しちゃいますね。」
 「そんなことないですよ。
 それよりこの喫茶店、変わってますよね。なんかのんびりとした風景とイン
 テリアで、いるだけで落ち着ける気がしますよ。
 そんなに洒落っ気もないし、自然な感じがいいですね。
 なんか田舎のローカル線で旅をしているような気になれます。」
  この私の言葉は、お世辞でも何でもない、素直な感想である。
  おそらく10人も入れば窮屈に感じる小さな喫茶店。ちょっと郊外にある
 のだが、窓からは田んぼと山、そのむこうに家がぽつぽつと見える。
  とはいっても、そんなに田舎にあるわけではなく、今見える窓の反対側に
 は住宅街と、そのむこうには小高いビルが並んでいる。
  都会と田舎の狭間、なんとなくいい環境にあるものだ。

 「そうでしょ、私もこれが気に入ってね。いつもここを打ち合わせ場所に使
 わせてもらっているんですよ。
 あ、ママさん。いつものブレンドね。」
  羽賀コーチはカウンターの奥にいる女性(おそらくはこの店の経営者なの
 だろう)に声をかけると、体を窓の外に斜めに向け、私が眺めている風景を
 同じように楽しんでいた。その体制で視線を私に向け、さらに話を続けた。

 「ところで、私のコーチングを受けたいというご依頼ですよね。具体的に話
 を聞かせてもらってもいいですか?」
 「その前に、コーチングっていうのをもう少し教えてくれませんか?
 星田くんからはそれなりに聞いてはいるんですけど、どのようにすすめるん
 ですか?」
 「おっと、そうですよね。どうもせっかちなクセが抜けなくて。
 ところで星田さんからどのように聞いていますか?」
 「なんでも『答えはすべてクライアントの中にある。コーチはそれを引き出
 すだけだ』とか。自分の口からポンポン答えがでてくるそうですね。
 そんな魔法みたいな事ができるんですか?」
 「ハハハ・・・星田さんも大げさだな。しかしポンポンとまでは行かなくて
 も問題解決の答えはすべてクライアントである皆さんの口から出してもらっ
 ているのは確かですよ。」
 「そうなんですよ。はい、ブレンドです。」
 そういって会話に割り込んできたのは、この店のママさんであった。
 
 「会話に割り込んじゃってごめんなさいね。でもコーチングの話でしょ。
 それなら体験者の私の話、参考になるかも。
 私も羽賀さんにお世話になったのよ。それでこのお店のイメージチェンジが
 できたの。
 お店の改装の時に『どんなイメージにしたいか』っていうのが漠然としか決
 まっていなかったので、具体的なところが煮詰まっちゃって。
 そんなときに羽賀さんに出会ってコーチングしてもらったのよ。」
 気がつくとママさんはしっかりと座り込んで話し始めた。
 
 「とにかく羽賀さんはいろんな角度から質問してくれるのよ。どんなイメー
 ジかって大きなところから、客席は、カウンターは、色は、風景はって具合
 にね。それだけじゃなくお客さんの表情まで聞いてくるんだから。
 最初は一つ一つ答えるのにずいぶんと頭をひねっていたんだけど、どんどん
 イメージがふくらんでくるのがわかるの。
 だから最後には『もっと聞いてちょうだいよ』って言っちゃったくらいだも
 ん。自分で考えるのってこんなに楽しかったとは思わなかったわ。」
 
  なるほど、いろんな角度からの質問か。
 「質問されれば当然答えないわけにはいかないから、考えますよね。それを
 口に出すことが『問題解決の答え』になるんですね。」
 「お、さすがですね。もう私が言うことは何も無いじゃないですか。
 ママさんもありがとう。なんか協力してもらっちゃって。」 
 羽賀コーチはそういうと、お気に入りのブレンドをひとすすりした。
 
  羽賀コーチはママさんにお礼を言って、「ここから先は依頼内容に入るか
  ら」と席をはずしてもらった。
 「さて、本題に入る前に他にお聞きしたいことはないですか。」
 一番の疑問が取れたせいか、私も早く本題に入りたいと思っていた。
 「いや、細かいところはあとでお聞きします。
 それよりも私の話を聞いてもらっていいですか?」
 
  今から始まる「コーチング」に大きな期待を寄せて、とにかく話をしたい
 衝動を抑えている自分がそこにいた。 
                              

  コーチングに対しての大きな疑問に納得したせいか、落ち着いて羽賀コー
 チを観察することができた。
  営業を長いことやっているせいか、最初にお客様をゆっくりと観察するク
 セがついてしまっている。そこからどうやって攻めようか、というプランを
 立てるのだ。
  私から見た羽賀コーチ、歳は私と同じくらいの30代後半だろう。細身の
 体つきだが、その振る舞いはひとつひとつが優雅に見える。声のトーンも落
 ち着いており、耳になじみやすい。
  振る舞いが優雅に見えるとはいっても、その格好が洒落ているわけではな
 い。どこからそんな雰囲気が出てくるのだろう?

 「じゃあ、具体的なお話しを聞かせてもらえますか?」
 羽賀コーチはメモを取り出し、視線を私にあわせ、身構えている。そこから
 は「聞くぞ!」という雰囲気がうかがえた。

  その言葉に甘え、私は少しずつ話を始めた。
  今回のプロジェクトの話、そしてそのプロジェクトでの私のミッション、
 どうしても達成しなければならない目標。そこから始まり、今の営業一課の
 状況を一通り話すと、部長の話に移った。
  
 「なるほど、有川さんのおかれている状況がよくわかりましたよ。今の話を
 伺っていると、時折出てくる三宅部長さんがずいぶんと気がかりのように聞
 こえたのですが。」
 「そうなんですよ。どうも古いタイプの人間でしてね・・・」
 これを皮切りに、部長から始まり会社の体質問題についての愚痴こぼしが始
 まった。そう、同僚の森田に毎週飲み屋でこぼしているあれである。

  どんどん話しているウチに不思議な事に気づいた。内容的にはいつも森田
 にこぼしている愚痴とそう変わらないのだが、話しているとどんどん心の中
 がスゥーっとしてくる。しかも話のテンポがいいのだ。まったく自然な流れ
 で口からどんどん言葉が出て行く。まるで自分の頭の中にあったしこりのよ
 うなものが小さくなっていくイメージだ。
  時間にすれば15分程度だったのだろう。話している時間は短く感じたの
 だが、その密度の濃さはいままでにない感触だった。
 
  一通り話を終えたのを見計らって、羽賀コーチからこんな言葉をかけられ
 た。
 「今いろんなお話しをしてみて、どんな気分ですか?」
 「そうですね、今まで同僚に同じようなことを話してきたつもりでしたけれ
 ど、こんなにすっきりとしたことはなかったですね。なんだか羽賀さんを相
 手にするとどんなことでも話せちゃうというか。
 ほんと、不思議ですね。
 でも羽賀さんが産業スパイだったら、なんよ思うとゾッとしますよ。
 かなり会社の内部の話までしちゃいましたからね。」
 「お、それいいアイデアですね。明日から産業スパイのバイトでもしようか
 な。」
  私の最後の言葉はもちろん冗談なのだが、それをうまく受け入れてくれる
 ところがコーチの技術なのだろう。
  
 「いろんな事を話してくれましたが、コーチには弁護士と同じように守秘義
 務がありますからね。安心して下さいね。
 ところで有川さん、コーチの私に協力して欲しいことって何でしょうね。」
 「え・・・。」
  私は一瞬言葉につまってしまった。
  てっきり羽賀コーチの方から「じゃあ、こんなことをやりましょうか」な
 んて感じの提案があるとばかり思っていたからである。

  しばらく沈黙の時が続いた。
  とはいっても、時間にすると10秒くらのものだろう。しかし私には数分
 間にも感じられた。
  そして私から出た言葉、それは
 「そうですね。とにかく売り上げを伸ばすというのが最終的な目標ですから
 ね。それに対してのアイデアとかヒントみたいなものが欲しいですね。
 それからどうやったら星田くんのようなやる気のある部下を育てることがで
 きるのか。いっそのこと部下全員を羽賀さんにコーチングしてもらいたいく
 らいですね。」
 「なるほど、売り上げに対してのアイデア出しと部下の育成、その2点をお
 手伝いできればいいんですね。」
 「はい。
 でも一度に二つなんていいんですか?」
 「ちょっと質問してもいいですか?
 その二つがあれば、目標である売り上げを伸ばすということが達成できそう
 ですか?」
 「う〜ん、もっと細かい問題もあるのでしょうけど・・・。
 あと強いて言えば会社の体質改善かな。でもこの問題は私個人じゃどうにも
 ならないでしょうし。」
 「星田さんが変わって注目を浴びたように、有川さんの課が注目を浴びると
 会社側が見る目はどう変わってくるでしょうね。」
 「そうですね。きっと何かを感じてくれるかもしれませんね。特に部下の育
 成方法とか。」
 「一つ提案してもよろしいですか?」
 「ええ、どうぞ。」
 「星田さんが変わることで、有川さんの部署が変わるきっかけになった。と
 いうことは有川さんの部署が変われば会社が変わるきっかけにつながるので
 はないかと思ったのですが、どうでしょうか。」
 「そうですね・・・そう考えるとやってみようかなって気になりますね。う
 ん、やってみましょう。よろしくお願いします。」

  羽賀コーチの言葉にのせられたわけではない。会社に対しては何かアクシ
 ョンを起こしたい。常々そう思っていたことが具体化しただけなのだ。

  「それではコーチングをはじめるということで、そちらの方の具体的な話
 にうつりましょうか。」
  金額的には無理をすれば出せないこともない額であった。ま、森田と毎週
 飲みにいくのを止めればなんとかなるか。
  結局セッションは毎週月曜の朝7時、出社前に喝を入れるつもりでこの時
 間にお願いした。

  さて、いよいよ月曜から始まるコーチング。
  この羽賀コーチとの出会いが、私の人生にとって劇的な変化を迎えること
 になるのを知るのは、もっと先のことである。





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